白魚四代記 その2
暦仁元年(1238年)、中通島の地頭職を剥奪された玄城坊尋覚の次男・家高は、
青方に移住して青方氏を興しました。
初代 白魚弥次郎弘高
▲建長8年(1256年)8月11日、青方氏初代・青方家高は、地頭職・峯氏の許可を
得ずに中通島の南に位置する白魚と佐尾の下沙汰職を分離し、次男・弘高に与えました。
▲文永2年(1265年)の7~10月頃に弘高は白魚に移り、「白魚弥次郎弘高」を
名乗りました。
▲ところで白魚というのはどんなところなのか、白魚の地勢について近藤 章編「白魚
盛衰記」の描写から引用してみましょう。
白魚は若松瀬戸の北岸にあり(※実際は東岸)、宿ノ浦から海上凡そ一里、地形が
湾入して前に二、三の小嶋在り、(中略)海上から眺むると此の小嶋は陸地と相重
なって殆ど島とは思えない程である。しかも白魚はこれらの小嶋に遮られて全く見
えず又、裏手に聳える白魚連峰は三方を囲繞して、自然の城郭を形造って実に要害
無比の地である。 (※は引用者注)
▲このほか、白魚の地は水源が豊かで海上に点在する小島が防波堤の役目を果たすなど、
「すべてに於いて環境的最良の地」ということです。
▲弘高は分立後まもなく、肥前国を含む北九州地方の守護大名・少弐氏から個別に文書を
給付されるなど、この段階で白魚氏の発展の基盤は整備され始めていたそうです。
さらに、弘高は少弐氏から将軍に仕える御家人として扱われていたそうですが、正式に
幕府から認められていたわけではなかったそうです。これは「御家人の子は御家人」と
いう当時の認識からきているそうで、御家人・玄城房尋覚の子である青方家高、さらに
その子である白魚弘高は御家人に該当する、ということだそうです。
弘高の代までは幕府や守護から与えられる御家人としての役目を務める場合、青方氏に
寄り合って役目を果たしていたようです。
白魚氏は青方氏の分家として何事も本家の命に従っていましたが、徐々に青方氏を凌ぐ
強大な勢力となっていきます。
→ 白魚四代記 その3につづきます
【参考文献リスト】
・中世五島武士団の生態(新木涵人)
・白魚盛衰記(近藤章)