スメルズ for Kamigoto

知られざる新上五島町の魅力をスメルする。

白魚四代記 その3

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「千軒あれば共過ぎ」ということわざがありますが、これは「家が千軒もあれば、ひ

とつの経済圏として、外部に頼らなくても自立していける」という意味だそうです。

 

「白魚千軒」と呼び讃えられ、本家・青方氏を凌ぐ勢力へと成長する白魚氏。初代・

弘高の子・時高が徐々に頭角を現していきます。

 

2代 白魚九郎入道行覚

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▲文永2年(1265年)、初代・弘高父子は白魚の地に移住後、農漁業を起こし、

その後の主要な財源となる製塩所を設け、一族が自立できるようになると鍛冶屋や

造船所を設けるなどしました。

 

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▲現在も白魚地区には製塩所の痕跡とみられる塩釜神社の祠が祀られていますが、製塩に

用いられた白魚独自の鍋具の造りは、トップシークレットとして領外への持ち出しは厳禁

だったそうです。

 

また、造船については高い技術を誇っていたそうで、大型帆船を造り白魚水軍という

強力な船団組織を保有していた、と伝えられます。

 

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▲文永11年(1274年)の蒙古襲来(文永の役)以降、再度の襲来に備えて、鎌倉

幕府は兵の増員や、元寇防塁といわれる石築地を築造することに懸命になりました。

                   【画像はWikipediaの蒙古襲来絵詞から転載】

 

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▲弘安4年(1281年)の弘安の役に備えて、白魚氏2代・時高は幕府の命により

現在の福岡市姪浜で異国警備を務め、以降も警備・防塁の修繕等の役を務めました。

 

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▲役目を終え、白魚に帰ってきた時高は「青方氏領内の祝言島、折島を横奪した」と

青方氏から訴えられ敗訴しています。

 

正安4年(1302年)頃、時高は出家し「白魚九郎入道行覚」を名乗るようになった

ので、これ以降「時高」は「行覚」の名前で進めます。

 

嘉元3年(1305年)、白魚氏は異国警備等の恩賞として、筑後国三潴庄是友名の

田畑と荒地を与えられましたが、建徳2年(1371年)に和解を勧告されるまで、

在地領主の住吉氏・荊津氏との相論が絶えず続いたということです。

 

全国の鶴崎さん集合というサイトによると、筑後国三潴庄是友名は現在の久留米市

安武町住吉に比定されるそうです。

 

着々と地歩を固める2代・行覚。地頭職・峯氏は、白魚氏の所領を手中にしようと、

画策をはじめます。

 

                       → 白魚四代記 その4につづきます

 

【参考文献リスト】

・中世五島武士団の生態(新木涵人)

・白魚盛衰記(近藤章)

若松町誌(若松町教育委員会

全国の鶴崎さん集合

 

「蒙古襲来絵詞」を読む

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