白魚四代記のその後
正平14年(1359年)正月の白魚氏滅亡後、その一族と青方氏、吉村半右衛門の
その後のお話をご紹介したいと思います。
その後の白魚氏
▲高井旅に逃れ、山中に潜み機を見て中通島を脱出した者もいたそうですが、これに白魚
一族が含まれていた、というお話があります。
▲そのお話によると、一族らは肥後国・五家荘に逃れ、宇土という場所に隠れ住んだ
といいます。【画像はWikipediaの五家庄から転載】
▲これに出陣中の4代・繁らが加わったかどうかはわかりませんが、その後も一族は
仇を討とうと男女ともに武芸に励んだそうです。
▲また、後年白魚氏は青方氏と和睦し帰島。それから館を構えたのが現在の青方郷元浜
地区の長福寺周辺だそうです。この辺りの字名を「宇戸」と言うそうですが、これは
白魚氏が五家荘に隠れ住んでいた土地の名前に由来する、というお話もあるそうです。
その後の青方氏
▲その後の青方氏は凋落の一途をたどります。
▲正平7年(1352年)、青方氏は鎌倉時代から続く平戸松浦氏との所領をめぐる
相論を、宇久島の領主・宇久氏の仲裁によって解決しましたが、現在の続浜ノ浦郷・
道土井郷・飯ノ瀬戸郷、さらに応永29年(1422年)、折島・柏島・串島の3島が
平戸松浦氏領となり、大幅にその所領を減らしました。
以降も一部の所領を宇久氏・平戸松浦氏・志佐松浦氏などと共同領有することになり、
徐々に力を落としていきます。
明応2年(1493年)、跡継がなかったため、宇久氏から養子を迎えて青方氏の家督と
しましたが、以降は宇久氏に属し、江戸時代は福江城下に移住。代々にわたって五島藩の
家老職を務め、明治になって旧領の青方に復帰。現在に至ります。
その後の吉村半右衛門
▲吉村半右衛門はその後も宿ノ浦に住み続け、明治以降も養子を迎えるなどして血脈を
保っていたそうですが、現在どうなのかはわかりません。
▲宿ノ浦の墓地には一般の墓地とは別に、母屋墓地といわれる4家の武家や神官家の
先祖を祀る特別な墓地があります。吉村半右衛門家のお墓はこちらにあるということ
ですので、宿ノ浦でも影響力のある人物だったんでしょうね。
ちなみに宿ノ浦は白魚滅亡前後の南北朝時代に、志佐松浦氏、平戸松浦氏、青方氏の
3氏が統治する「三方領」になっています。
【参考文献リスト】
・白魚盛衰記(近藤章)