白魚四代記 その4
白魚氏2代・時高は出家して白魚九郎入道行覚と名を変え、御家人として幕府の役目を
果たし、着々と地歩を固めていきます。
白魚氏・峯氏相論
▲正安4年(1302年)、行覚は地頭・峯 貞(さだむ)相手に訴訟を起こしました。
これは、峯氏側が「白魚氏が、白魚・佐尾の所領を略奪した!」と一方的な剛田主義を
発動し、強引に両地を没収したために起こされたものでした。
ちなみに峯 貞は「松浦 定」とも言うそうですが、こちらの名前の方が有名なようです。
中央に細長い瀬戸が流れ東西2つの島だった小値賀島を「One Osaka!」ならぬ
「One Ojika!」とばかりに埋め立て1つの島にしたのがこの方だそうです。
▲このころから中通島と若松島を隔てる若松瀬戸は、中国や博多の商船による海上交通の
中継点として航路が開かれたそうですが、往来する船ごとに通過料を徴収し、これによる
収入が大幅に増加していたそうです。
以降、これを目当てに、宇久氏、平戸松浦氏、志佐松浦氏などが次々と領有権を主張し、
「二方領」「三方領」といわれる一部の地域を複数の豪族で支配し、それぞれの利権が
複雑に入り組んだ地域となっていきます。
地頭職・峯氏もこれが目的だったのかもしれませんね。
ところで、峯氏系図には本来ならば持と湛(たたう)の間に繁(しげし)が入りますが、
持から地頭職を継承したのは湛ということですので、ここでは省略しています。
▲鎌倉時代の訴訟は「御成敗式目」に則って行われたそうですが、通常「三問三答」
という、図のような「引付」を間に挟んだ「訴人」「論人」による書面でのやり取り
を3度行った後、両者による相論が行われる、という方式だったそうです。
白魚氏・峯氏間の訴訟は「三問三答」で結審せず、「六問六答」のやり取りがなされ
ましたが、これは「庭中」という引付での口頭弁論が行われたからだそうです。
▲また、弘安7年(1284年)に、青方氏は峯氏との長年の相論の結果、青方領での
地頭職が認められました。このこともあってか、行覚は自身の治める白魚・佐尾の下沙
汰職から地頭職へ昇格させるよう、あわせて陳情したともいわれています。
嘉元4年(1306年)に、峯氏による「六答」が終了。判決が下ったのは9年後の
正和4年(1315年)で、あくまでも白魚・佐尾の地頭職は峯氏で、白魚氏はこれ
に仕える下沙汰職であるという、両者の主従関係が確認されたものの、白魚・佐尾は
白魚氏によって領有されることが認められました。
→ 白魚四代記 その5につづきます
【参考文献リスト】
・中世五島武士団の生態(新木涵人)
・白魚盛衰記(近藤章)
・宿ノ浦