【有川】 有河氏のお墓とされる堂ノ前さま
有川郷上有川地区に、鎌倉時代から江戸時代初期にかけて有川を治めた豪族・有河氏の
ものとされる宝篋印塔や五輪塔の墓石群があります。
▲場所はこちらです。
▲案内板によると、正式名称は堂ノ前古墓石群。地域の人たちからは、「どんまえさま
(堂ノ前様)」とよばれています。
有河氏の興りは、正治2年(1200年)頃、宇久氏(五島氏)の始祖・宇久家盛公の孫
・源 剛(つよし)が、当時の有川の豪族・馬場氏の養子となって有河源三郎を名乗り、
家督を継いだことに始まるそうです。
文治3年(1187年)、家盛公は魚目に家臣の浦氏を派遣し、榎津に常楽坊を建立
しましたが、どちらも宇久氏の五島列島制覇への足掛かりといったところでしょうね。
▲有河源三郎は堂ノ前から西へ50mほどの場所に館を構え、こちらが歴代有河氏の
本拠となったそうです。
有河氏は宇久氏の家臣として寛永17年(1640年)頃まで有川を治めていましたが、
「福江直り」といわれる、五島藩2代藩主・五島盛利公による在郷家臣団の福江城下への
強制移住が行われた際、当代・有川膳内はこれに従い福江へ移りました。
膳内は翌寛永18年(1641年)に亡くなりましたが、世継ぎがいなかったため有川
宗家は断絶となったそうです。
▲さて、こちらがお堂の内部。かつての堂ノ前の宝篋印塔と五輪塔は、崩落し四散した
まま放置されていたそうですが、後年になって有志の手によって現在のようにお祀り
されるようになったということです。
また、祭壇中央の墓石は江戸中期頃のものですが、宝篋印塔と五輪塔は、江ノ浜や太田の
宝篋印塔と同じ室町期に建立されたと推測されるそうです。
▲五輪塔の円形の水輪には梵字なのか何なのかよくわからない文字が刻まれています。
いろいろ調べてはみたものの、どうみても漢字の「冬」と「少」にしか見えません。
もしかしたら、逆さに置かれてるのかな?とも思いましたが、わかりませんでした。
▲ちなみに、五輪塔というのはWikipediaの五輪塔によりますと、
(下から)方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、
仏教で言う地水火風空の五大を表すものとする。
ということです。【画像はWikipediaの五輪塔から転載】
▲堂内の右隅には三角の火輪が10基分ほどありますが、現在のように祀られる以前の
状況が、なんとなくわかりますね。
▲堂内左端にも未完の五輪塔。
▲中央祭壇には五輪塔の完形のものが3基、宝篋印塔は未完のものが1基確認されます。
実際にはバラバラの状態から再度組み上げられたことから、完形とされるものでもそれが
本来の形かどうかはわからないそうです。
▲ところで、お堂の隣には平石で組まれた台座のようなものがあります。
▲こちらには宝篋印塔と五輪塔と思しき残骸が無造作に置かれています。
▲手前に置かれた石をよく見ると、月輪といわれる輪の中に梵字の 「バ」 が刻まれて
います。
▲左から「ア」「バ」「ラ」「カ」「キャ」と読むそうですが、五輪塔の場合、この
五文字を最下部「方形の地輪」から最上部「団形の空輪」までの各輪に、順番に一文字
ずつ配するそうです。
また、建立の際にはこの五文字のある面を、方角に関係なく必ず正面するそうです。
「正面」とは「東」を意味することから、「東方の発心門の五梵」といわれます。
このほか、南方・西方・北方にもそれぞれ「修行門」「菩提門」「涅槃門」の五梵が
ありますが、長くなりそうなので気になる方は 古美術 平安アート のサイトを参考に
してください。
残骸の石が五輪塔だったとすると「バ」は円形の水輪にあたるはずですが、全然丸く
ないですね。
▲宝篋印塔の場合だと中央の「塔身」といわれる部分に前述の四方各門の五梵を一文字
ずつ4面に配するそうですので、残骸の石は「宝篋印塔の塔身」ということを知ること
ができます。 【画像はWikpediaの宝篋印塔から転載】
▲東方を表す梵字の隣面には、やはり南方を表す梵字「バー」が刻まれています。
こうやっていろいろ調べてみると、面白いことがわかって楽しいです。
【参考文献リスト】
・梵字手帖(徳山暉純)