【有川】 友住郷の鎌倉神社の祠
有川の友住郷にある八坂神社の社殿裏手に鎌倉神社の祠があります。
▲場所はこちらです。
▲向かって左側の祠が鎌倉神社ですが、いつごろ建立されたのかはわからないそうです。
▲「鎌倉」というと大仏でおなじみの神奈川県の鎌倉市ですが、なぜこんなところ
に?という感じがしますね。【画像はWikipediaの鎌倉市から転載】
▲念のためググってみたら鎌倉市内には明治2年(1869年)創建の「鎌倉宮」と
いう神社がありました。が、なんとなくですがこちらとは関係なさそうですね。
【画像はWikipediaの鎌倉宮から転載】
調べてみると林田秀晴の「長崎県の神社を訪ねて(本土編)」という本に、長崎県内
の北松地方には鎌倉神社と称する神社が十八社ほどあるとの記載を見つけました。
▲グーグルマップで見てみるとこんな感じです。
北松地方の鎌倉神社の主祭神は、いずれも松浦宗家第三代当主・源二郎清(きよむ)の
弟・峯五郎披(ひらく)という人物です。寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いに
平家方として参戦したそうですが、その後は源氏方について所領を安堵されました。
峯五郎披はこの北松地方を領有して新田開発や産業の発展に尽力したため領民に愛さ
れたと伝えられます。この地方に多く鎮座しているのも、峯五郎披を慕う領民の思い
が窺えますね。
また社号が鎌倉神社となっているのは峯五郎披と鎌倉幕府に強固な関係があったため
とされています。
この後、峯五郎披の子孫は本拠を平戸島に移して平戸松浦氏を興します。江戸期には
平戸島・北松地方・壱岐島・小値賀島、さらには中通島の北部地域と浜ノ浦村の6万
3千石を治める平戸藩を構えるまでになりました。
ちなみに平戸藩第9代藩主の松浦清(静山)の11女・愛子は、京の公家・中山忠能
に嫁ぎますが、その娘・慶子は孝明天皇の側室となり明治天皇を産まれております。
▲つまり、現在の皇室は平戸松浦氏の血をわずかながら受け継いでいることになりま
すね。【画像はWikipediaの皇室から転載】
友住郷の鎌倉神社も北松地方の鎌倉神社と同一のものかどうかはわかりませんが、北
松・鎌倉神社の御神徳にあやかって友住郷にもお祀りしたのかもしれません。
ところで、江戸時代の友住郷は五島福江藩の所領でしたが、北松地方を治める平戸藩
の影響があったのでは?と思われる意外なものがありました。
▲以前、生態学者の鴨川誠氏の「生態学的な視点からみた新上五島の生態系の概要」
という講演を拝聴する機会があったのですが、この中で友住郷を含む崎浦地区でしか
みられない特徴として「マテバシイ」の群生を挙げておられました。
【画像はWikipediaのマテバシイから転載】
これは平戸藩が飢饉対策で植樹を奨励したことと関係があるのではないかとおっしゃ
られてましたので、少なからず平戸藩の地域との交流があったのかもしれません。
▲鎌倉神社とマテバシイは、友住郷の成り立ちと島外との交流を考えるうえで重要な
役割を果たすのかもしれません。
もしかしたら普通に鎌倉市の鎌倉宮だよ!とかいうオチかもしれませんが・・・。
【参考文献】
・長崎県の神社を訪ねて(林田秀晴)