【新魚目】 浦桑郷にある常楽院の山門と、祖父君神社の二の鳥居
浦桑郷にある常楽院というお寺の山門と、祖父君神社という神社の鳥居について調べ
てみました。
▲常楽院の石灯籠でもご紹介しましたが、常楽院は曹洞宗通幻派に属する禅寺で、寛永
10年(1633年)の開山です。
▲場所はこちらです。
▲つづいて、祖父君(おじぎみ)神社の創建は文明5年(1473年)11月1日。
▲場所はこちらです。
さて、両寺社の山門と鳥居は元禄3年(1690年)6月に建立されました。
どちらも風化のために はっきりと読むことはできませんが、柱に刻まれている銘文は
ほとんど一緒の内容が刻まれているようです。もしかしたら、2基セットで造られて
建立されたのかもしれません。
常楽院 山門の銘文については新魚目町郷土誌に記載がありますので、こちらを参考に
ご紹介したいと思います。
▲まず、常楽院の山門。
(※向かって右の柱)
新奉造立 観音大士堂 石華表雙標 惟願
君臣和穆 武運長久 子孫繁昌 福寿無彊
(※向かって左の柱)
大檀那五嶋武助 源盛永禱 當嶋豊楽 諸願成就 焉
于時元禄三庚午年六月吉日
▲つづいて、祖父君神社の二の鳥居。こちらは がんばって読んでみました。〇の部分は
判読できず、▢の部分は剥落していました。
(※向かって左の柱)
新奉造立 祖父君宮 〇華表雙▢ ▢▢
君臣〇穆 武運長久 子孫繁昌 福寿▢▢
(※向かって右の柱)
大檀那五嶋武助 源〇永禱 當嶋〇楽 諸願成就 〇
〇時元禄三庚午年六月吉日
どちらが正しいのかわかりませんが、銘文を見比べてみると柱の位置が逆に据えられて
いること、そして祖父君神社の鳥居は建立された時から現在の場所にあったようですが、
常楽院の山門は「観音大士堂」というところに建立されたということがわかってきます。
▲常楽院には33年ごとに開帳される 山中観世音像という秘仏があります。案内板に
よると平安時代(794年~1185年)の渡来仏で、もともとは有川の頭ヶ島に漂
着したそうですが、紆余曲折あって魚目村が管理することになったそうです。
▲文治3年(1187年)、この仏像を安置するために宇久氏(五島氏)の始祖・宇久
家盛公が、浦桑のお隣 榎津の地に「常楽坊」を建立しました。当時、宇久氏は 宇久島を
治める土豪でしたが、常楽坊の建立には中通島を勢力下に置き やがては五島列島全域を
支配するための足掛かり、という意味合いもあったそうです。
その後「常楽坊」は、寛永10年に「常楽院」と名前を改めて 浦桑郷の浦地区に開山。
安政4年(1857年)に現在地に遷ったそうです。観世音像はそのまま榎津に置かれ、
「山中観世音堂」とよばれるようになりました。このお堂が銘文にある「観音大士堂」
で、現在常楽院にある山門は、もともとは このお堂に奉納されたものだそうです。
明治8年(1875年)、山中観世音堂は、神仏分離令にともなう廃仏毀釈運動に
よって廃堂。同年、観世音像と山門が常楽院に遷されました。
▲また、どちらの銘文にも刻まれている「華表」というのは、「鳥居」を意味するそ
うですので、常楽院の山門も 本来は一般的な鳥居の形をしていたのかもしれません。
【画像は祖父君神社 二の鳥居の銘文】
▲「大檀那 五嶋武助」は、富江藩の2代藩主・五島盛朗(もりよし)の元服後の初名
だそうです。寛文2年(1662年)に福江藩から分知して富江藩が成立しましたが、
榎津や浦桑を含む魚目村は この富江藩に編入されました。【画像は常楽院 山門の銘文】
銘文自体の意味としては、「藩主ならびに、富江藩の今後ますますのご健勝とご発展
を祈念して!」といった内容のようですが、このとき藩主・武助公は数えで14歳。
もしかしたら武助公の元服記念に建立されたのかもしれませんね。
▲どちらも いまから約320年前に作られたものですが、祖父君神社の二の鳥居に関
しては、おそらく新上五島町に現存する最古の鳥居だと思います。
【画像は常楽院 山門の銘文】
刻まれた銘文は光の加減で見えたり見えなかったりしますが、晴れた日の午後12時
頃がベストのようです。
▲ちなみに青方郷の青方神社の三の鳥居も「新奉造立 山王権現」に始まる銘文が刻まれ
ているようですが、こちらは風化が激しく ほかの銘文が全く読めない状態です。
鳥居の形状を見る限りでは今回ご紹介した山門と鳥居とほとんど同じのようですが、
青方も富江藩領でしたので もしかしたら同じ時期に建立されたものかもしれません。
【参考文献リスト】
・新魚目町郷土誌
・五島魚目郷土史(西村次彦)
・富江町郷土誌