【有川】 潮合騒動(2)
江ノ浜村を管轄下に置く有川代官所がワイルウエフ号遭難事故の通報を受けたのは、
5月2日、事故当日の昼ごろだったそうです。
▲有川代官・近藤七郎右衛門ら5名と、友住遠海番役・安永惣兵衛ら数名が江ノ浜に
駆けつけました。近藤らは幕を張らせて仮番所を設置し、事情聴取にあたります。
▲救助された4名の内、亀山社中の浦田運次郎と、薩摩藩士・村山八郎次は友住へ移動。
水夫の市太郎と三平は江ノ浜に止め置かれました。
5月3日、事故の翌日に福江藩に通報が届きます。
▲5日、福江藩から2名の役人が友住に入り、運次郎から事故の経過を聴取します。
▲6日、長崎の薩摩屋敷に通報が届きます。
▲長崎の薩摩藩屋敷跡はこちらです。面白いことに隣に五島藩屋敷跡がありました。
17日、薩摩屋敷から3名が現地に入り、友住の運次郎のもとで事故の経過を聴取し、
19日、村山八郎次を連れて一旦長崎に戻りました。
また、 福江藩から船奉行が入り、藩主のねぎらいの言葉や酒・肴を贈ったそうです。
福江藩と有川代官所の指揮のもとに、ワイルウエフ号の漂流物や沈没物は日を追って
収容され、遺体も続々と収容されていきました。
▲遺体については近くの浜辺に打ち寄せられるもの、沖を漂流するもの、対岸の平島や、
遠くは北魚目・小串に流れ着くものもあったそうで、中には腐敗が進み確認ができな
い遺体もあったため、着用物から判定した遺体もあったそうです。
6月7日、再度長崎の薩摩屋敷から役人が友住入り。
13日、薩摩の役人が海士などを引き連れ沈荷の引き上げに参加します。
▲流物で不要なものは焼却、遺体は有川から住職を迎えて江ノ浜墓地に葬りました。
6月18日、有川代官所・薩摩藩・浦田運次郎の3者立会いの下、引き揚げられた荷
物についての引き渡しが完了。ようやく遭難事故は落着します。
有川代官所の元帳による、1ヶ月半の探索沈荷引揚げなどに要した人数と船数は、
人数/875人、船/123艘、海士/203人、羽差/72人
とあります。
海士は宇久島からも動員されたそうです。「羽差」は江戸時代に捕鯨をする際の現
場の責任者で、鯨に飛び乗り銛を打つなどの仕事をしていた役職です。捕鯨が盛ん
だった有川からも動員された様子がわかりますね。
この1か月半、普段は静かな江ノ浜村は戦場のようにごった返したと伝えられます。
以上がワイルウエフ号遭難事故、通称「潮合騒動(しおやそど)」の顛末です。
【参考文献リスト】
・有川町郷土誌(平成6年)