【有川】 潮合騒動 坂本龍馬と浦田運次郎
多くの犠牲者を出したワイルウエフ号遭難事故ですが、このとき坂本龍馬は寺田屋事件
で負った傷を癒すために、妻のおりょうを連れ添って鹿児島で療養中でした。
▲現在では「日本最初の新婚旅行」として知られる鹿児島の温泉旅行中に遭難事故は
起きました。【画像はWikipediaの楢崎龍から転載】
遭難事故では、龍馬から船長を任された黒木小太郎、龍馬が自身の後継者と目していた
池内蔵太、そのほか瀬戸内海出身の水夫らの計12名が犠牲になりました。
▲事故の一報を聞いた龍馬は、ユニオン号で鹿児島から下関に赴く途中の6月14日に
江ノ浜の潮合崎を慰霊のために訪れたそうです。
▲潮合崎はこちらです。
ワイルウエフ号の遭難事故を発端とする一連の騒動、通称・潮合騒動は、旧暦5月2日
~6月18日(新暦6月14日~7月29日)の1か月半を指しますが、龍馬が来た
という6月14日は、まだまだワイルウエフ号の漂流物や遺体などが収容されていて、
江ノ浜は騒動の真っ只中にあります。
▲龍馬は江ノ浜に上陸し、事故の犠牲になった池内蔵太ら12名の霊を弔うために土
地の庄屋にお金を渡して墓碑を建立するよう依頼したそうです。このとき龍馬は紙と
筆を庄屋に借り、遺体の打ち上げられた砂浜に紙を広げ「溺死者合霊之碑」と書いて、
墓碑に刻むための遭難者全員の名前を書いたそうです。
▲と、このワイルウエフ号遭難事故について書かれた文章をみると、必ずこんな感じで
「龍馬がきた!」と書かれていますが、実際に龍馬が江ノ浜を訪れたかどうか定かでは
ないそうです。【画像はWikipediaの坂本龍馬から転載】
「坂本龍馬 年表」でググると、慶応2年6月の龍馬の動向については、
6月1日、おりょうとともにユニオン号に乗船。鹿児島から長崎へ出航。
6月4日、長崎着。おりょうを豪商・小曾根英四郎に預ける。
6月17日、下関で幕府軍との海戦に参加(第二次長州征討)。
と、なっています。
この6月4日~17日までの間ですが、サイトによって記述が若干違ったりします。
この期間の龍馬の行動についての記録とその裏付けがないことが原因だと思いますが、
長州側の資料には「4日に長崎を発って14日に下関に到着した」という記録もある
ようです。
ただし、長崎から下関まで蒸気船で10日間もかかるのか?という疑問は残りますが、
長崎→五島→下関というルートだったら辻褄が合ってきます。ですので、もし本当に
龍馬が来たのだとしたら、6月5日~10日頃になるかと思います。この空白期間が
「龍馬慰霊説」の根拠のひとつになっているんでしょうね。
そのほか、龍馬の兄・権平に宛てた手紙にも鎮魂碑文と死亡者名簿のイラスト付きで
触れられています。「慰霊に行った」とは書かれていませんでしたが、「墓碑の建立を
依頼した」のは間違いなさそうですね。
ところで、遭難事故の生存者の1人である浦田運次郎ですが、この名前は偽名です。
本名は前田常三郎 。ほかにも佐柳高次の名前を使っていますが、Wikipediaのページも
佐柳高次でタイトルが付けられていますので、こちらの方が有名みたいですね。
この浦田運次郎についてWikipediaを参考に少しご紹介してみましょう。
天保6年9月28日(1835年11月18日)生まれ。讃岐国塩飽佐柳島の出
身。嘉永4年(1852年)江戸に出府。安政2年(1855年)長崎海軍伝習所
の水夫に採用される。1860年(万延元年)勝海舟らとともに咸臨丸で渡欧を経
験する。文久2年(1862年)勝の紹介で龍馬と知り合い、神戸海軍操練所、さ
この後、慶応2年(1866年)にワイルウエフ号の遭難事故に遭いますが、同年6月
に起きた第二次長州征討に長州側として参戦。このときは龍馬とともに乙丑丸(ユニ
オン号)に乗船しています。翌慶応3年(1867年)には「いろは丸」に乗船。日
本最初の海難審判事故として有名ないろは丸沈没事件にも乗り合わせています。
▲明治2年(1869年)には新政府軍の陽春丸に乗って箱館戦争に参加。戦後、故
郷の佐柳島に戻って明治24年(1891年)1月27日に亡くなりました。
【画像はWikipediaの箱館戦争から転載】
浦田運次郎はあまり有名ではありませんが、なかなか波乱の人生だったようですね。
【参考文献リスト】