【有川】 潮合騒動(1)
慶応2年(1866年)旧暦5月2日の明け方、ワイルウエフ号という木造帆船が、
有川の江ノ浜・潮合崎(しおやざき)沖で沈没しました。
▲潮合崎はこちらです。
プロイセンで建造されたワイルウエフ号は、長崎の亀山社中が薩摩藩からの資金援助を
受けてトーマス・グラバーから購入。亀山社中の練習船となった船です。
▲亀山社中は幕末の長崎で結成された日本最初の商社として有名ですね。
【画像はWikipediaの海援隊から転載】
▲有川港多目的ターミナルの1階ロビーにはワイルウエフ号のミニモデルがあります。
▲場所はこちらです。
▲本来の船名は「WILD WAVE」のようです。エゲレスやメリケンと同じ感じで
しょうね。
沈没に至るまでの経過を、亀山社中の一員でワイルウエフ号に乗船していた浦田運次郎
という人が供述していますので、こちらを参考にご紹介したいと思います。
▲4月28日の午前4時、ワイルウエフ号は15名の乗員と1名の便乗者を乗せて、
薩摩藩名義で長州藩が購入した大型蒸気船のユニオン号(桜島丸)に曳航されて長崎
港を鹿児島に向かって出航。鹿児島での命名式の挙行と航海訓練が目的だったようで
すが、船内には荒鉄や大砲、鉄砲類なんかも積まれていたそうです。
【画像はWikipediaの長崎港から転載】
ちなみにユニオン号は、薩摩藩側では「桜島丸」と呼ばれ、長州藩側では「乙丑丸
(いっちゅうまる)」という名前で呼ばれていたそうです。
翌29日は朝から凪。夕方には天草沖に到達しました。
なお、旧暦でこの年の4月は29日までしかない「小の月」だったようです。
▲翌5月1日午前6時、甑島沖に到達しますが徐々に東からの風が強くなってきます。
午前8時、ワイルウエフ号の乗員は協議した結果、天草に避難して風がやむのを待つ
ことにしましたが、ますます風と波が強くなって思うように操船できません。
運次郎の供述にはありませんでしたが、この前後に曳航していたユニオン号は荒波に
よる両船の衝突を避けるために引き縄をほどいて単独で鹿児島へ向かいます。帆船の
ワイルウエフ号は漂流を余儀なくされます。
午前10時ごろには雨が降り出します。夜になるまで島影も見えず、暴風雨の中、船
員は懸命に働いて急場を凌ぎます。
翌2日午前0時ごろには南からの風に変わり、風雨と波がさらにひどくなりました。
風は再度東からの風に変わります。なす術がないと判断した乗員は、「このまま船を
風に任せれば五島のどこかに着くはず!」として、さらに漂流することになりました。
▲午前5時、暗闇の中に島影を見つけ舵を切り、碇を下しますが大波によって浅瀬に
乗り上げ、さらには引き波で舳から沈没しました。
▲ワイルウエフ号の乗員16名中12名が死亡。生存者は浦田運次郎と、便乗者の薩摩
藩士・村山八郎次を含む4名で、奇跡的に近くの磯に打ち上げられたところを救助され、
福江藩有川掛の江ノ浜村・潮合崎沖で遭難したことを知ります。
→ 潮合騒動(2)につづく
【参考文献リスト】
・有川町郷土誌(平成6年)