【有川】 太田墓地にある太田新左衛門顕彰碑
太田郷の太田墓地に、通称「殿様墓」とよばれる太田新左衛門顕彰碑があります。
▲太田墓地はこちらです。
▲太田新左衛門という人物について墓地内の案内板によると、もともとは現在の長崎県
大村市を本拠とした大村氏の支族・朝永純武(すみたけ)の子で、朝永新左衛門尉純良
(すみよし)と名乗っていたそうです。
朝永家は代々大村氏の当主に仕えて家老職を勤めた家柄だそうですが、新左衛門自身は
日本初のキリシタン大名の大村純忠(すみただ)に仕えた侍大将で、国境をめぐって
対立する隣国の竜造寺氏や松浦氏との戦陣に加わり、各地で戦功をあげた人物だった
そうです。
天正12年(1584年)、弟の主税ら数名と、主君の純忠公に松浦氏との和睦を薦めた
ところ、キレられて浪人。この年に新左衛門と弟の主税は、宇久(五島)氏20代当主・
宇久純玄(すみはる)によって五島に招かれました。
▲こうして新左衛門は、純玄公から太田・阿瀬津・鯛之浦を与えられ、太田姓を名乗る
ようになった、ということです。
▲文禄元年(1592年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)の際に、旧主の大村公から
兄弟揃っての帰参を命じられますが、宇久公がこれを拒否。最終的に弟の主税が帰参に
従いました。残された新左衛門は、その軍略の才を買われて五島勢の軍奉行として出陣。
慶長2年(1597年)の慶長の役にも出陣したそうです。
【画像はWikipediaの豊臣秀吉から転載】
太田・阿瀬津・鯛之浦の知行地では、農林漁業を奨励するなど村民から篤い信頼を得て
いたということですが、元和5年(1619年)に起きた「大浜主水事件」という藩の
乗っ取り事件を契機に、藩主・五島盛利公は「福江直り」といわれる在郷家臣団の福江
城下への強制移住を行います。新左衛門もこれに従い、正保2年(1645年)5月に
89歳で亡くなりました。
▲前置きが長くなりましたが、こちらの灯篭が「太田新左衛門顕彰碑」。天保10年
(1839年)、新左衛門から7代目の子孫である太田良明父子が建立しました。
▲灯篭の竿には、「故太田邑主 朝永新左衛門」に始まる銘文が刻まれています。
▲顕彰碑の場所は、墓地中央通路の どんつきです。
【参考文献】