志々伎神社と志自岐神社
有川の太田郷(北側のピン)と奈良尾の岩瀬浦郷(南側のピン)に志自岐羽黒(しじ
きはぐろ)神社という神社があります。
この社号は、志自岐神(十城別命)と羽黒神(倉稲魂命)の2柱の神さまが一緒に祀
られているということを意味しますが、最初から一緒に祀られていたのかどうかはっ
きりとわかりません。
文化10年(1813年)に伊能忠敬が上五島の調査に訪れた際の日記には、太田は
「志自岐、羽黒両合社」、岩瀬浦は「志自岐、羽黒大権現合社」と記されていますの
で、この当時も一緒に祀られていたみたいですね。
祭神の十城別命は平戸の志々伎神社から。倉稲魂命は稲荷神としての方が有名です
が、羽黒ですので山形県羽黒山にある現在の出羽神社(羽黒権現)からそれぞれ勧請
したものだと思います。
▲こちらが太田郷の志自岐羽黒神社。
▲場所はこちらです。
創建は天正3年(1575年)。当初は志司岐権現と呼ばれていたそうです。
その後、志自岐羽黒権現と呼ばれるようになりまして、明治に入って現在の社名にな
りました。明治28年(1895年)には社名を太田神社に変更。昭和30年
(1955年)に再び現在の社名に戻しています。
神紋は五島藩主の家紋である「丸に花菱」と、天満宮で有名な「梅鉢」のようです。
明治7年(1874年)には無格社に列しています。
▲場所はこちらです。
創建年代は不詳のようですが、貞享元年(1684年)に五島藩主の祈願所として再
建されていますので、それ以前の創建になります。
当初から羽黒権現宮と呼ばれていたそうで、明治に入って現在の社名になりました。
神紋はやはり「丸に花菱」を使用しているようです。
大正11年(1922年)には郷社に列しています。
島内屈指の名社として知られていますが、江戸期には五島藩主の祈願所として崇敬さ
れまして、江戸への参勤の際は出府・帰島のたびに参拝し、航海の安全を祈願する神
楽が奉納されたそうです。
ところで志自岐社の総本宮である志々伎神社は、平戸市南端・野子町の志々伎山を神
域とする上宮・中宮・地ノ宮・沖ノ宮の四社によって構成される神社です。
▲場所はこちらです。
主祭神は日本武尊の第6子である十城別命。そして鴨一隼と七郎氏廣の2柱を配祀しま
す。鴨一隼は小値賀町の神島神社の、七郎氏廣は平戸市の七郎宮(明治13年に同市
西海地方にはこの3祭神にまつわるさまざまな伝説がありますが、これはまたの機会
にしましょう。
▲志々岐山(347.2m)。山頂部分はツノのように突き出しています。
【写真提供/悠遊山歩 - Yahoo!ブログ】
吉田収郎著の「志々伎神社」では、志々伎神社の創建は西暦332年としています。
福岡県糸島市志摩御床にある志々岐神社の由緒には白鳳元年(7世紀中頃)に平戸・
志々伎神社を勧請したとの記載があるとのことですので、少なくともそれ以前の創建
になります。
志々伎山はその特異な山容から、古くから海上交通の目印とされてきたそうで、霊山
として信仰の対象ともされてきたそうです。
周辺地域からは弥生時代の祭祀あとも発掘されているそうですので、西暦332年創
建というのも納得できますね。
▲志々伎山山頂の志々伎神社上宮【写真提供/悠遊山歩 - Yahoo!ブログ】
また同著によりますと「志々伎」は「ししき」あるいは「ししきの」と読むのが正し
いんだそうです。かつて平戸島は志式島(ししきしま)と呼ばれていたそうで、この
ことに由来します。
そして社号も「志式」→「志々伎」→「志自伎(志自岐)」と変化しました。「志自
伎(志自岐)」と書いたのは寛元2年(1244年)が最初とのことですので、創建
年代不詳の岩瀬浦・志自岐社の勧請年代は鎌倉時代以降だといえるようです。
▲志々伎神社中宮跡【写真提供/悠遊山歩 - Yahoo!ブログ】
志々伎神社は壱岐・対馬を除く長崎県内では唯一の延喜式内社で、さらに全国285
座の明神社のひとつ「下松浦明神」として朝廷の崇敬を受けました。
明治14年(1881年)には無指定県社、昭和13年(1938年)に指定県社に
列しています。
志々伎神社はあまり有名ではありませんが、県内でも屈指の格式と由緒を誇る神社
だったんですね。
【写真提供】
【参考文献リスト】
・志々伎神社(吉田収郎)
・五島神社誌(神祇会南松浦郡部)