【有川】 有川郷の弁財天祭り(1)
1月17日、有川郷では「弁財天(メーザイデン)祭り」がおこなわれました。
▲有川郷の弁財天宮でも ご紹介しましたが、「弁財天祭り」は有川郷内の浜・船津・
中筋・上有川・高崎・西原 の6地区それぞれに組織された青年団によって行われる、
弁財天宮への奉納行事を起源とした お祭りです。
▲弁財天宮の場所はこちらです。
▲当日は早朝から各青年団の大人から子供まで揃いの法被や着物をまとい、弁財天宮や
有川神社などの各地域の神社を皮切りに、 官公庁や商店・事業所、地域内の一般家庭、
居酒屋などの飲食店を廻ります。
▲このとき「弁財天(メーザイデン)」とよばれる大漁や商売繁盛・家運隆盛・五穀
豊穣などを祈願する鯨歌が、揃い打ちの太鼓に乗せて歌われます。
かつては1月14日に例祭日を定めて行われましたが、少子化や青年団員の減少などを
理由に平成21年と同24年に日程の変更がなされました。現在は「消防出初式が行
われる週の土曜日」ということで、1月第2もしくは第3土曜日におこなわれています。
▲「弁財天祭り」の鯨歌は、西日本各地に伝わる鯨歌や、「伊勢踊り」に起源を持つと
されます。江戸時代、捕鯨や造船に関する高い技術を持つ者は、様々な捕鯨組織から
ヘッドハンティングされていたそうです。この有川にも 和歌山や瀬戸内海沿岸、北部
九州からの就労者が多かったと伝えられています。
これらの技術とともに伝えられたのが有川を含む西日本各地に残る鯨歌ですが、この
中でも和歌山県太地町の「砧踊(きぬたおどり)」という歌に伝承の過程を見ることが
できるようです。
この「砧踊」が中国地方に伝わると「キンタ踊」に、生月や五島などの西海地方に伝わ
ると「生歌(きうた)」と変化します。ちなみに、有川でも明治時代までは「キンタ踊」
とよばれていたようです。
▲「砧」というのはWikipediaの砧によりますと、
アイロンのない時代、洗濯した布を生乾きの状態で台にのせ、棒や槌でたたいて柔
らかくしたり、皺をのばすための道具。
ということです。
▲江戸時代の有川湾での捕鯨は、沿岸を回遊する鯨を湾内に仕掛けた網に追い込み、
身動きが取れなくなったところを銛で突き獲るという方法だったそうですが、追い込む
際には 両手に持った砧で船の縁を叩き、その音で鯨を驚かせていたということです。
【画像はWikipediaの捕鯨文化から転載】
このときの「砧で船の縁を叩いた音」が有川に伝わる弁財天の基本的な太鼓のリズム
になっているそうです。
ちなみに、こちら ↓ が和歌山の「綾踊」の歌詞の一部。
明日は吉日砧打 明日は吉日砧打
おかた姫子も出て見やれ
きぬた踊りは面白や 猶もきぬたは面白や
そして、こちら ↓ が有川の「生歌」の歌詞の一部。
明日は吉日 生歌打つ
御方よ姫子も出てうしゃれ
生歌踊りの 祝う面白や
当時の捕鯨に携わる者にとって「砧打つ」ということは「鯨が獲れる」ということに
繋がるので、大変縁起のいい言葉だったと想像できますね。
▲この「生歌」を有川の6青年団で唯一伝承しているのが浜青年団です。
明治時代後期には有川における捕鯨も衰退し、弁財天祭り自体も自然消滅に至りますが、
昭和5年(1930年)に昭和天皇の御大典記念行事として浜青年団によって復活。
これを機に、その年一年の良き仕合せを祈念する年中行事として定着しました。
ちなみに、弁財天宮が勧請された元禄4年(1691年)には、助右衛門という人物が
鯨歌を作成しています。こちらが有川の鯨歌の最も古い記録になるようです。
・祝い目出たの有川組や 御代も栄えて民しげる
・浦のあじろはおはらい箱よ 見れば其の日の祈祷となる
・あいの継子に山見をすれば せみの子持ちか座頭のつれ
・弁財天の浦よな うらは七浦七恵美須 座頭は有川
・祝ひめでたの甚五さま組よ 勢びの子持ちを日々にとる
・三国(一)じゃ 座頭を取すまいた でかいた でかいた まずはでかいた
大きな大づれおうとつた いよの
→ 有川郷の弁財天祭り(2)につづきます
【参考文献リスト】
・有川町郷土誌(昭和47年)
・江口家文書 第3集(荒木文朗編)