【有川】 鯛之浦の六人斬り 鷹の巣キリシタン殉教碑
鯛之浦郷の旧鯛之浦教会に鷹の巣キリシタン殉教碑という石碑があります。
▲場所はこちらです。現在の鯛之浦教会の裏手に旧鯛之浦教会はあります。
殉教碑の隣にある石碑にはこう書かれていました。
鷹巣キリシタン殉教
1870年1月27日の深夜、鷹巣に住んでいた「中田寅吉」方に有川郷士と名乗る
4人組が「キリシタン征伐に来た」と怒鳴り込み、寅吉の妻「ヨネ」、長男「勇
次」、次女「レツ」、平戸からお産に来ていたヨネの妹「コン」とコンの夫「友
吉」を殺害、それに加えてコンの胎児まで突き刺し、2家族計6名が残忍な殺害に
よって殉教した。その後、6名の遺体と血痕は、福江からの検視役の調査を待って棺
と容器に収容され、遺体は聖堂裏の丘へ、血痕は聖堂脇の窪地に埋葬された。後に4
人の郷士は「赦されぬ新刀試し切り」として、切腹を申しつけられている。
ということです。
鯛之浦教会から北に進んだ箒山バス停近くに、事件が起きた現場がありますが、昨年
「鷹ノ巣信仰の遺産」として整備され石碑が建立されました。
▲場所はこちらです。
▲こちらが入口。少し奥まったところに石碑はありますが、さらに奥には採石場がある
ので、トラックの出入りが激しいようです。
▲全景はこんな感じです。石碑のほかにはベンチしかありません。奥に石段が見えま
すが何もありませんでした。
▲石碑です。後ろにある壺が謎です。
さて、この事件についてですが、平成6年版の有川町郷土誌に詳しく記載されていま
したので、事件後のお話を要約して書いてみましょう。
実はこの事件では友吉の息子である長吉(6才)が助かっていたそうです。
家族が殺される一部始終を見ていたそうですが、「一人だけは殺さずに遺すものだ」
という習慣があったそうで長吉は残されました。
そして、キエとノシという娘もいましたが、この2人も隠れていて難を逃れたようです。
その後、犯人と思しき6・7名の若者を代官所が捕えて首実検したのですが、このと
き活躍したのが長吉だったそうです。
誰がお父さんを殺したのか、誰がお母さんを殺したのかを的確に答え、4人の犯人を
言い当てたとのことです。
犯人たちは福江に送られ、6か月後にようやく有川に戻ってきましたが引廻しの上切
腹を申しつけられました。
▲明治3年(1870年)旧暦7月11日と12日、4人の犯人は有川の高崎地区に
あった文武場で2日に分けて2人ずつ切腹したそうです。
▲現在、文武場跡地は憶念寺というお寺になっています。
▲場所はこちらです。
▲そして憶念寺の裏手にある上原墓地には切腹した4人のお墓が残されています。
切腹に先立って役人側では長吉に親の仇を討たせようとしたそうですが、復讐はキリ
スト教の本旨ではないとして親族の方がお断りになられたそうです。
また、後年長崎の大浦天主堂に斬られた6人それぞれの手の骨を送り、殉教者の列に
加えられたという伝承もあるようです。
【参考文献】
・有川町郷土誌(平成6年版)
・海鳴りの五島史(郡家真一)