【上五島】 相河郷の相河の地名の由来をスメルする
相河郷の相河(あいこ)という地名について考えてみました。
▲赤い線の枠内が相河地区を中心とした相河郷です。といっても、相河郷は中央を流
れる相河川の下流域に相河地区があるだけで、中流域には農地が広がっています。
▲相河地区には博多〜上五島・福江航路のフェリー・太古が就航する青方港ターミナル
があります。【画像はWikipediaの野母商船から転載】
さて、この「相河」という地名ですが、郷土誌などの諸文献には「同郷に流れる相河川
にちなんだ地名」というふうに書かれています。
▲相河川は「血ノ川」という異称がありますが、これは神功皇后の三韓征伐の帰途に、
兵士らが血に汚れた衣装を相河川で洗い流した際、川が真っ赤に染まった、という伝説
に由来します。
▲また、奈良時代に編纂された「肥前国風土記」の「(松浦郡の)西の方には相子田
の停(あいこだのとまり)という港があって、この港から遣唐使は出発した」という
記述や、平安時代初期に編纂された「続日本記」の「宝亀7年(776年)閏8月6日
(新暦9月27日)」に、「遣唐使船が肥前国松浦郡の合蚕田浦(あいこだのうら)で
風を待った」という記述がありますが、この合蚕田と相子田は同一であり、現在の相河、
あるいはお隣の青方(あおかた)に比定する説が有力だそうです。
【画像はWikipediaの遣唐使から転載】
▲ 民家の玄関先にあるので具体的な場所はちょっとアレですが、相河には遣唐使が船
を係留するのに使ったと伝えられる「遣唐使のともづな石」というものまであります。
▲こちらが「ともづな石」。現在はこんな感じですが、もとは高さが5mくらいあっ
たとか。
中世期には、この地域を治めた土豪・青方氏の支族である鮎川氏が誕生しますが、
この時期の史料には「相河」は「鮎川」と書かれています。
要約すると、合蚕田(相子田) → 鮎川 → 相河(←イマココ)という流れですね。
▲前置きが長くなりましたが相河の地名の由来について、民俗学者で地名学者でもある
谷川健一の「日本の地名」という本に「アイの風」という興味深い記述がありました
ので、ご紹介させていただきます。
秋田県の仁賀保では南西の風を「クダリ」と呼ぶそうです。かつて 上方(畿内)から
下ってくる帆船は この風を利用して物資を運んでいたそうですが、これに対して仁
賀保から上方に物資を運ぶために必要な北風を「アイの風」と呼んだそうです。
「アイの風」は奈良時代には使われ出した言葉だそうですが、富山では「東風」、太
平洋側の地域では「南風」を指すそうです。
以下、抜粋してご紹介したいと思います。
海岸に見られる鮎川の地名もアイの風と関連しているところが多い。(中略)西側
に岬があってアイ(北風)を避ける停泊地で、かつて相泊といったが、それが鮎川
になったという。(中略)これを見ればアイの風は航行者に喜ばれる風であると共
に、また恐れられる風でもあったことがわかる。
▲相河を含む青方湾は天然の良港として知られ、現在でも洋上石油備蓄基地があること
からわかるように、湾内はどの方向の風に対しても穏やかです。
【画像はWikipediaの上五島国家石油備蓄基地から転載】
また、同著には「アオギタ」という風も紹介されています。こちらは主に西日本での
「初秋から仲秋に吹く北風」の意味だそうですが、福岡県遠賀郡芦屋町では「帆船が
北海道から帰ってくる風」といわれているそうで、大型の帆船がスピードのある航行
をするにはふさわしい風だったそうです。
遣唐使が合蚕田(相子田)の港を訪れたのも閏8月で、「アオギタ」の吹く時期にも
あてはまることから、もしかしたらこの風が吹くのを待っていたのかもしれませんね。
遣唐使の風待ち港だったとされる相河と青方。ひょっとしたら2つの地名の由来は、
風の名前にあるのかもしれません。
信じるか信じないかは、あなた次第です。
【参考文献リスト】
・上五島町郷土誌(昭和61年)
・日本の地名(谷川健一)